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信じる 

『信じていたのに裏切られた』と泣いている人がいたとして(昔の私かもしれませんが・・・)「信じる」ってなんだということについて考えてみました。

「信じる」には対象があります。
人物、情報、感覚などなど。

ですが、信じた結果どうだったかということまでは「信じる」という行為には含まれていません。

信じた結果どうだったのかという検証をしてしまった後では事実しかありません。信じていても、いなくても、事実は事実としてそこにあり、事実が「信じる」という行為に拘束されることはありません。

「信じる」対象が自分であった場合、
例えば、「自分はこの問題が解ける」と信じていても、解けたか解けなかったかは、信じる信じないにかかわらず事実が発生します。

「信じる」対象が自分以外の人間であった場合、
例えば、彼女が「彼氏は浮気しない」ということを「信じる」と相手に伝え、彼氏が浮気をしなかったという事実が確認されたとしても、その事実は、彼氏が「彼女が私は浮気をしないと信じている」ということを「信じる」という行為の結果かもしれませんし、適切な浮気相手がいなかったからかもしれません。少なくとも、彼女の「信じる」という行為が事実を生み出すことはありません。

「信じる」とは対象がありながら、とても一方的な行為と言えるのではないでしょうか。

また、どこまでも一人称な行為でもあります。
「私たちが信じる○○は、・・・」という言葉は文章としておかしくありませんが、「あんただけそう思ってるんじゃないの」というツッコミを誰もが入れたくなる文書であり、信じているのは私たちだということを私が信じているいにすぎません。「この子は私を信じている」ということについても同じことが言えます。

よって、「信じる」とは何らかの対象に向けられながら、その対象や対象が生み出す事実にはなんら作用しない自らの一方的な行為、自己完結な行為です。

しかしながら、「信じる」という行為は発生する事実には何ら影響は与えませんが、信じる行為の主体である「自己」には大きな影響を与えます。具体的には、精神的な安定があげられるでしょう。
精神的な安定はポジティブな思考の基礎になります。ですから「自信」という言葉があるのではないでしょうか。もちろん「他信」という言葉はありません。おそらく行為としてありえないからでしょう。

自信という言葉に代表されるように、「信じる」とは自己完結な行為でありながらも、その人の精神活動としてはとても重要な行為です。


ここで冒頭に設定した『信じていたのに裏切られた』ということについて考えてみます。

もし誰かに裏切られたとしても、「信じる」ということに臆病になってはいけません。

なぜなら、「裏切られる」というのは「信じる」行為とは無関係に発生した事実だからです。「裏切られた」という事実は、その人への過度な期待がもたらしたものかもしれません。または、「信じる」ということが事実に都合よく作用するという誤解、もしくは、「信じる」ということを吟味せずに思考停止したがために、自身の勘違いや取るべき処置を怠った結果もたらされたものかもしれません。

逆説的に言えば、裏切られることで対人スキルが増し、良好な人間関係を築く素地が固まるならば、さらに「信じる」ことができるようになると考えることもできます。
ですから、事実が「悲しい」から泣けてしまうのは必然ですが、「裏切られた」と泣く必要はありません。

「信じる」ことについてはこんなところでしょうか。
不十分な点や不整合な点についてはご意見いただけると幸いです。

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